先日、友人がとしまえんに行ってきたと話していた。閉館前に行けて記念になったと喜んでいたが、田舎者の俺には、都民にとってとしまえんがどんな存在だったのかもわからないわけで、いまいちピンとこない。まぁ、東北民に例えるなら、岩手県雫石の「けんじワールド」が閉館した時みたいなもんなんだろうな、きっと。やっぱ違うかも。
そのとしまえん跡地がハリーポッターのテーマパークになるというニュースを見た。
まず、なぜ今ハリーポッター?という感想。しかも開園となったらまた何年か先の話になるんじゃないのか。本編自体は書籍も映画もとうの昔に終わっている。スピンオフの映画は続いているようだが。もしかしたらその辺の今後の展開を視野に入れての投資の意味合いもあるのかもしれないな。しかし、今の子供もハリポタ読んでるんだろうか。
俺もハリポタは子供の頃ずっと読んでたし大好きだ。ハリポタの魅力は、ストーリーというよりは独特の世界観にあると思う。そういう作品は長く愛されやすいし、世界観があるからこそこのテーマパークみたいな体験型施設っていうのも成り立つコンテンツなんだろう。
しかし、そんなハリポタファンの俺でも、「テーマパーク」に関しては、反対とまでは言わないが、ちょっと否定的な考えがある。
少なくとも俺にとっては、だが、ハリーポッターは児童文学だ。子供の頃は漫画ばかり読んでいると怒られた一方で、本は読めと言われた。漫画も本だろと子供の頃はぶーたれていたが、もちろん今ではその意味は分かる。一つは単純に、小さい時から活字の良質な文章に触れていれば、それだけ国語力がつくって話だ。小中学生の勉強なんて、国語さえできれば他の教科もどうにかなるもんだし、逆に言えば国語ができなきゃお勉強はもう諦めた方がいい。だから読書はそれだけ重要だ。フキダシの中のセリフだけじゃちょっと不十分だ。
もう一つ、言うまでもないが、読書は想像力を鍛えられる。活字の並びから、情景を、人を、心情を、頭の中に思い描く。自分なりのカメラワーク、アングルで。三人称でも一人称視点でもそれは自由だ。もはや想像というよりは創造のトレーニングと言っていいかもしれない。そういう鍛錬の意味で言って、やっぱり漫画は文学に劣ってしまう。
特にハリー・ポッターは、先も触れたように、独特の世界観が魅力の作品だ。だからこそ想像するのが楽しいし、子供にとっては本当にいいトレーニングになる。
「ハリーポッターと賢者の石」が映画化されたのは、俺が書籍の第三巻(ハリーポッターとアズカバンの囚人)を読み終わったぐらいだったと思う。多分、小学校高学年くらいの時。その時はもちろん、好きな本が映画化されてやったーぐらいの気持ちしかなかった。そして映画は素晴らしかった。なによりあの音楽。さすがはジョン・ウィリアムズという他ない。しかし、今から振り返るとあの映画は素晴らしすぎた、悪い意味で。
当時から俺はませていて、ハリポタに限らず「映画と原作は別物だからね」なんていうスタンスでいたつもりだったのだが、しかしどうして、一回映画を観てしまったことで、それまで俺の頭の中にあったハリポタの世界観はどこかに行ってしまった。ほとんど、映画のあの世界観に上書きされてしまった。3巻を読み終わり4巻の発売を待つ間に、ハリーはラドクリフ君になってしまったし、ハーマイオニーはエマ・ワトソンになった。なにより、ジョン・ウィリアムズの楽曲が読書中も頭の中で流れるようになってしまった。素晴らしすぎたから。今思えば、この時点で、俺が松岡佑子さんの和訳文から想像、創造できる世界は限りなく狭くなってしまっていた。
4巻の中だと記憶しているが、ハーマイオニーが受けた呪いのせいで前歯が伸びてしまうという場面がある。結局、治療してもらうのだが、元の長さよりちょっと短めにしてもらうことで、見違えるように綺麗になったいうオチがついている。当時ここで気づいた。そう、本だけを読んでいれば、ハーマイオニーは出っ歯で、神がボサボサで、決して美人な設定ではないのだ。ちなみに3巻を読んでいる時までは、俺はハーマイオニーを当時のとあるチョイブサなクラスメイトの顔で置き換えていた(めっちゃ失礼)。それがいつの間にか映画の呪縛にかかり、俺の頭の中のハーマイオニーもエマ・ワトソンのような可愛らしい女性に置き換わっていた。
まぁ、長くなってきてしまったが、何が言いたいかというと、映画とかテーマパークも素晴らしいけども、素晴らしい分だけ子供たちの想像の世界を侵食しかねないって話だ。一つの解答を与えてしまうから。もちろん、ハリポタ映画やテーマパークはあくまでワーナーの、映画制作陣の解でしかない。無限にあって良い解の中の一つに過ぎない。が、よしんばそれを理解していたとしても、一度模範解答を見せられて、それを大きく覆すものをまっさらなキャンバスに描くのは甚だ容易じゃない。ビートたけしのモノマネを指示されて「ダンカン、バカヤロー!」以外の台詞を思いつくくらい容易でない。ちなみにたけしさんはこの台詞を一度も言ったことはないらしい。おそらくだがこれは松村邦洋さんのそれこそクリエーションだ。
映画を観たり、テーマパークに行ったりしたのを機に、本を読むという子供たちもいるだろう。それはそれで良いことだが、間違いないのは、本から読み始めた子Aと映画から見始めた子Bでは明らかに感受するものは違うだろうということだ。これが漫画からかアニメからかという話なら、本来どちらかに善し悪しをつけることじゃないかもしれない。しかし、先に触れたように、こと「児童文学」としてのハリーポッターのあり方を見るなら、俺はAの子の体験がやはり貴重だと思う。なにせ、BからAは不可逆なのだ。
映画化して、舞台化して、アトラクションができて、テーマパークができて、メディアミックスの中でハリー・ポッターのコンテンツが成長するのはJ.K ローリングにとっても喜ばしいことだろう。一方でコンテンツが盛り上がるにつれて、本来の児童文学としての素晴らしい魅力が少しずつ失われているとするとちょっとしたアイロニーを感じる。子供の想像力・創造力は重要で偉大だが、同時に脆い。そんなことは、テーマパークが生み出す経済効果に比べれば社会的に取るに足らない問題かもしれないが。
ま、とは言いつつ、ハリポタが今後読む価値のないものになるということはないはずだ。「不思議の国のアリス」が多くの映像化を経た今でも名作であるように。もちろん、19世紀末の読者が膨らませた世界と比べれば、俺らの描く世界は創造性に欠けているのかもしれないが。
ちなみに、個人的に映画版ハリポタで一番残念だったのは、チョウ・チャンが俺が思い描いていたほどかわいくなかったこと。
石垣2020年8月22日 9:34 AM /
おれもハリポタの本大好きで大好きで何遍も読み返した後に映画観たら自分の思い描いてた世界観よりも劣ってて結局賢者の石しか見なかったな。 エマ・ワトソンだけはその後も見つづけたけど。 しかしハリポタパーク作るのなら東北地方に作って欲しかった。原作の、北の方にあるイメージからも。そして上野駅9と3/4番線から電車で行くみたいな。